DMMグループの一番深くておもしろいトコロ。
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消防領域に命を懸けるベルリング・飯野塁は、なぜDMM.comにジョインしたのか?

DMMグループの一番深くておもしろいトコロ。

  • 飯野 塁(いいの るい)株式会社ベルリング 代表取締役CEO

    1989年千葉県生まれ。大学在学中に消防事業を営む株式会社ベルリング創業。同年10月、CFRP(炭素繊維強化プラスチック)を活用した業界最軽量の消防自動車用ハイルーフ、Carbon Fire Jacketを開発。2014年消防車両事業を開始。2019年更なる事業拡大のためDMM.comへジョイン。

「領域問わず、なんでもやる」DMM.comに、異色の会社が仲間入りした。茨城県つくば市で、消防車両の企画・開発を行う株式会社ベルリングだ。

代表を務める飯野塁は、大学在学中にベルリングを創業。学生起業としては珍しいハードウェアを開発するスタートアップで、なおかつ「消防」という至極ニッチな市場に参入した。 資本力・経営知識に乏しい学生世代が、資金を必要とするハードウェア開発に参戦する例はそう多くない。事実、創業後の苦労は絶えなかったという。 それでも飯野が挑戦を辞めなかった理由は、「人に役立ち、未来をつくる。」という理念を実現するためだった。 ビジネスに興味を持ったのは、保育園を経営していた、今は亡き母の影響。消防に興味を持ったきっかけは、消防士の父に憧れたから。

両親の意思を受け継いだ、人の命を救う気鋭のベンチャー企業・ベルリングの創業秘話に迫った。

 

「人の役に立つこと」に命を燃やす——起業家・飯野塁の決意

 

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飯野がベルリングを創業したのは、大学3年生の頃。中国留学中に出会った世界各国の友人たちに刺激を受け、幼い頃からの目標だった起業家の道へと歩みを進めることになる。

 

飯野 : 経営者だった母の影響から、幼い頃より起業家になると決めていました。母の教育は独特で、欲しいものがあってもお金をくれることはありませんでした。買ってきた木製の洗濯バサミを僕たちに渡して絵を描いてフリーマーケットで販売し、その収益で好きなものを買いなさいと。欲しいものが高額なら何をすればさらに多くの利益が生み出せるのか、どうやったら、ものを買ってもらえるのか考えなければいけませんでした。小さい頃から商売人の生き方を教えられていたんです。

 

事業を立ち上げる以上、利益を上げ続けることは至上命題。しかし、飯野はそれに加え、誰かの役に立つことを最優先においていた——それが、彼の生きがいだからだ。
いくつかビジネスモデルを検討し、最終的に候補に残ったのが、保育と介護、そして消防の3つ。保育は起業家を志すきっかけになった母が手がけていた事業であり、介護は母が亡くなった後に祖母に育てられたことから、思い入れが強かったそうだ。
また消防は、消防士の父に憧れた経験があり、いつか自分も父のようになりたいと思っていたため、自分ごと化しやすい領域だった。

 

飯野 : 3つの事業のうち、どれを選択しても結果を出す自信がありました。最終的に消防領域を選択したのは、現在ベルリングの根幹となっている軽量化ハイルーフの商品化が構想できたからです。これまでにないハイルーフの商品化に成功すれば、社会に大きなインパクトを残すことができ、それでいて事業として大きな成果をあげられると確信しました。

 

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「ハイルーフ」とは、ベルリングの基幹技術である「軽量化」を駆使して開発された屋根のパーツのこと。旧来型の消防車両に取り付けることで車両のキャビン(人が乗車する部分)が広くなる。ハイルーフを搭載した消防車なら、隊員が準備しながら現場に迎うことができるほか(時間短縮)、従来よりも多くの機材が積載できるようになる。

 

しかし、飯野にはプロダクトを開発する技術がなければ、経営者の知人もいない。そこで、まずは消防士にハイルーフにニーズがあるのかをヒアリングすることから、事業をスタートした。

 

飯野 :「消防士の方にお話を聞いて回ったところ、ハイルーフにニーズがあることが明確に分かりました。その後、商品の販売先となる消防車のメーカーと消防署にもお話を聞いたところ、商品を買ってもらえる確証が持てた。入念に準備をしたところで、ハイルーフを開発できそうな企業に“ドアノック”で訪問をしました」

 

知識も経験もない状態でハードウェアを開発するのは、至難の技。幸いにも開発を任せるパートナー企業は見つかったものの、製品に品質問題があれば、人の命に影響する。先々に待ち受ける前途多難な人生が想像できたが、「人の役に立ちたい」という想いが、飯野を突き動かした。

 

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飯野 : 僕は7歳で母を亡くしています。幼い頃に母親の死を目のあたりにしているので、ずっと死を身近に感じていきてきました。死ぬことに比べたら、事業に失敗することなんて大したことない——銀行から融資を得て、一度きりの人生、ベルリングを通じ『人の役に立つこと』に命を燃やすと覚悟しました。

 

ものづくり事業の特性上、飛躍的に事業が伸びることはなかったものの、ベルリングのハイルーフは堅実に売上を上げ続けた。
ただ、もちろん会社経営には苦労が伴う。取引先に騙されたこともあるそうだ。「ものづくり企業経営のほとんどは、辛く苦しいこと」という飯野の言葉からも、その苦悩がうかがえる。
それでも事業を続けられる理由には、とあるエピソードがあるそうだ。ベルリングの手がけた消防車が、人の命を救ったのである。

 

飯野 : ベルリングが手がけたとある消防車が、広くなったキャビンにAEDを積載して運用されていました。消防車の役割は火事を消火することなので、通常はAEDを装備することはありません。僕も救急車があるので、あえて積載する必要があるのかは疑問視していました。
しかし、そのAEDを使用し、1名の命を蘇生させることができたと伺いました。ハイルーフの消防車でなければ、その人はひょっとすると亡くなっていたかもしれません。自分たちの手がけたプロダクトが人の命を救ったと聞いたときは、これまで苦悩が吹き飛びました。率直に『ベルリングを創業してよかったな』と、胸にこみ上げてくるものがありましたね。

 

自分の限界が、会社の限界。成長ではなく飛躍を目指し、DMM.comにグループイン

 

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ベルリングは「人の命に関わるプロダクトを、責任持ってつくり続けたい」との思いから、資金調達はせず、自己資本のみで事業を運営していた。第三者による制約を受けず、自由に商品開発ができなければ、飯野が思う「本当の意味で人の役人立つこと」が実現できないと考えていたからだ。
歩みは速くなくとも、社会に与えられる価値が確実に増えた。苦しみながら、利益を上げ続けてきた。その事実には、社員全員が誇りを持っていた。
しかし飯野は、突如資金調達を考えることになる。急激な成長に意味を見出したこともなければ、資金調達によって企業価値を増幅させることにも興味はない。母に教わった商売人としての心得もあり、事業が育つ前に出資を得ることも疑問視していた。
ただ、やはり自己資金だけでは、あまりにも時間がかかってしまう。社会によりインパクトを与えるには、自己資金だけ事業を運営することが困難だと結論づけた。

 

 

飯野 : 事業を少しづつ成長させながら、休みの時間を利用して、新しい事業構想をしていました。その当時思いついたのが、現在のビジネスモデルを応用した、新型救急車の開発です。
しかし電卓を弾いてみると、消防車の比ではない開発費を要することが分かりました。順調に利益が上がっていたとはいえ、当時の事業規模では、実現に時間がかかりすぎます。もっと大きな組織体にしていく必要がありました。
……そこで一度立ち止まって考えましたが、やはりやるべきだろうと。僕らの技術を使い、一人でも多くの命を救える可能性があるのであれば、やらない理由がない。そこで初めて、資金調達を決めました。

 

調達先として、複数の事業会社が候補に挙がった。シナジーの発揮が見込める企業から、開発費に必要となる資金だけを調達するつもりだった。10%程度の株を手放すだけなら、議決権が失効することもなく、これまで通り主導権を握ったまま事業を運営できると考えたからだ。
しかし、ひょんなことから構想は一変する。とある製造業に挑戦したい商社との交渉が決まりかけていた矢先、実の弟から電話を受けたそうだ。

 

飯野 : 僕の弟も起業家(飯野太治朗氏)で、『DMM.comグループの一員になる』と連絡がありました。そこで自分も資金調達を考えている旨を伝えたところ、『役員に会ってみないか』と提案を受けたんです。正直なところ、最初は全く興味が湧きませんでした。事業セグメントが違いますし、シナジーが生まれるイメージもなかったので。

 

電話をしてから間も無く、飯野は取締役の村中悠介と対面で話をした。すると数日後、当時本社のあった柏市に村中が改めて足を運ぶことになる。

 

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飯野 : 出資を検討してくれていた企業の多くは、ベルリングと提携することで、自社の利益を拡大したり、新たに製造業に挑戦できることをメリットに感じていました。しかし村中さんは、僕らが手がけるプロダクトそのものや、掲げている理念、そしてその未来にも興味を示してくれたんです。
プロダクトを実際に見て多くの意見をくれましたし、消防士の人とも議論を交わしていました。僕はその姿に、心を打たれましたね。

 

当初は「興味が湧かない」と感じていたが、村中の姿を見て、DMM.comグループとの提携を決めた。また、当初の構想とは異なり、100%子会社になることも視野の一つとなった。

 

飯野 : 出資を考えている際は、救急車を開発することを目的に、10%程度の株と資金を交換しようと思っていましたが、少しずつ考えが変わってきました。
村中さんをはじめDMM.comグループの力を借りることができれば、僕自身が成長できる気がしたんです。僕の成長限界がベルリングの成長限界だと考えると、グループインすることで、もっと社会に提供できる価値が増えていくのではないかと考えました。

 

心の底から信頼できるパートナーを見つけた飯野は、DMM.comグループの一員として自分を成長させることで、ベルリングを飛躍させる決意をする。2019年4月12日、ベルリングはDMM.comグループの100%子会社となった。

 

DMM.comの後押しを受け、ベルリングは世界を目指す

 

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「これまで自己資金で運営してきた会社が、突然親会社を持つことになる。その事実に、社員の戸惑いはなかったか?」と尋ねると、「社員の誰も、僕の意思決定に反対する人はいませんでした」と飯野は答えた。

 

 

飯野 : 僕が新たに、救急車を開発したいことは、その背景も含め社員全員が知っていました。もちろん、自己資金だけではそれが難しいことも。だから、大きな挑戦をするためにDMM.comの一員になることに対して、反対する人はいませんでした。

 

DMM.comグループの一因になってから半年と、まだ日は浅い。しかしながら、すでにたくさんのメリットを感じているという。

 

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飯野 : まず、意思決定の選択肢が増えました。これまでは僕の主観で事業を運営していましたが、村中さんをはじめDMM.comのメンバーから多様なフィードバックを受けることができ、自分だけでは導けなかった最善策を考えられるようになっています。

 

また、資金的な余裕ができたことで、海外進出を見据えた事業運営ができるようになりました。僕らの強みは、何よりも企画と軽量化を基幹技術とした製品開発です。海外にも優れたプロダクトは多々ありますが、世界で挑戦したいという強い意志があります。
DMM.comグループにジョインしたことで、ものづくりのプロフェッショナルが集まってきました。社会の役に立ちつづけるために、ちゃんと稼ぐことを目的に掲げられる素晴らしいチームができています。このチームで、グローバルで人の役に立つ企業になっていきたいです。

 

企業名である「ベルリング」は、飯野を育て、「一度きりの人生、命を燃やせる仕事をしなさい」という教えを授けた祖母・すずさんの名前に由来する。留学時に出会った世界各国の友人たちと、「すずさんの教えに進行形(ING)のニュアンスをつけることで、人の役に立つことに、命を燃やしつづける」という企業名に決めたそうだ。

 

半年前とシチュエーションは変われど、飯野の想いは変わらない。ベルリングは今日も、「人に役立ち、未来をつくる。」という使命を背負って、走り続けている。
 

構成:オバラ ミツフミ  写真:岡島 たくみ

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